私も達観しているわけではなくて、 日々もがいて、あんな日記も書いているわけですが…
勝手なことを書けば、 やはり受け取っている愛の不足のように思います。 落ち込むのは。
客観的なところはさておき、 感情的にゆすぶられるのは、どうしても自分で自分を攻撃してしまう からですよね。あるいはいわれのない思いが自分を攻撃するのを 許可してしまう、というか。
私は(べつにキリスト教に勧誘しているわけではないですが)、 やはり、自分の行いとは無関係に受け入れられる、という経験が 重要なように思うのです。 自分の行いがどうであれ、どんなことをしてもしなくても、 自分は受け入れられている、自分はOKである、 という理屈抜きの体験が重要なように思うのです。
自分の行いがどれほどひどくても、私自身はまるごと受け入れられている。 自分の行いがどれほどよくても、私自身への愛が増えるわけではない。 もともと、私自身への愛は十分だから。
(そして、私にとっては、神様からの愛、そして家内からの愛がそれに相当するのですが)
それを体験して、そして自分でも自分自身に対して 「わたしはOKである」と言い聞かせつづける練習が必要なのかも。
あなたにもしも子どもがいて、 いろんなことがうまくできずに泣いているとします。 するとあなたは「こんなこともできずに泣きやがって」と ばしばし叩きますか? そうはしない(したくない)ですよね。 たとえ、いろんなことができなくても、 そのこととはべつに、 「わたしはあなたを愛しているよ」と 言ってあげますよね(あるいは言ってあげたいですよね)。
自分自身に対して(自分自身の中でおびえている子どもに対して)、 それと同じように言ってあげましょう。
私はあなたを愛します。
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